女三の宮(朱雀天皇の皇女)の出家生活、源氏の君の未練を歌う・公卿・大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」鈴虫の巻(2千円札の絵柄)茶道7A

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(自筆表面の凹凸はストロボの反射によるものです。)「自筆原本」自筆下の二つの印は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室・方子・と娘の幾千姫(玉映)の落款。自筆上部の「渚宮東面煙波冷」(渚宮(しょきゆう・楚王の宮殿)の東面(とうめん)に煙のように霞んで見える煙波(えんぱ)は冷やかに)という漢詩の落款漢詩は「白氏文集」の中の有名一節です。《原本中の凹凸はストロボの影響によるものです。》自筆下部の印は出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)の落款(印譜)自筆が「古切」とされたのは江戸時代。古切に至る詳細な経緯は下記「希少価値欄」に記載(1)・自筆の「原文の読み下し文」は次の通りです。《「源氏物語」鈴虫(すずむし)の巻》《原本上部に「渚宮東面煙波冷」(渚宮(しょきゆう・楚王の宮殿)の東面(とうめん)に煙のように霞んで見える煙波(えんぱ)は冷やかに)「白氏文集」の漢詩の落款が押捺・鈴虫の原文に引用されている。》「れいの御心は、あるましきことにこそはあなれ」と、ひとへに、 むつかしきことにおもひ聞え給へり。人目にこそ、變ることなく、もてなし給ひしか、うちには、憂きを知り給ふ氣色しるく、こよなうかはりにし御心を、いかで見えたてまつらしの御心にて、多うは、おもひなり給ひにし、御世のそむきなれは、今は、もてはなれて心やすきに、なほ、かやうになと、聞え給ふそくるしうて、「人はなれたらむ御住ひにもかな」と、思しなれと、およすけて、えさも強ひ申したまはす。十五夜の月の、また影かくしたる夕くれに、ほとけ(佛)のお(御)まへ・・・・《に宮おはして、》(文責・出品者)「原文の読み下し文」は、読みやすいように「通行訳」としております。(2)・自筆の「原文の現代語訳文」は次の通りです。《「源氏物語」鈴虫の巻》《「鈴虫の巻」国立民族学博物館に1部現存の原本と同じ「鈴虫」の貴重書《夏、女三の宮(朱雀天皇の皇女)三条院(三条殿)の邸で持仏開眼供養を盛大に開催》《女三の宮(朱雀天皇の皇女)の持仏開眼供養に今上天皇からの御布施を下賜》《女三の宮(朱雀天皇の皇女)の出家生活、源氏の君の未練を歌う》《院(六条院・源氏の君)は、この秋の野に造った前栽(せんざい)に虫を放たせなさって、風の少しばかり涼しくなってゆく夕暮に、お越しになっては、虫の声をお聞きになるふりをなさりながら、今なおおあきらめにはなりにくそうなことをおっしゃって宮(前朱雀天皇・女三の宮)をお困らせになるので、・・・・宮(前朱雀天皇・女三の宮)は、(前朱雀天皇・女三の宮)「いつもの殿(源氏の君)おくせはあってはならぬことではないか」と一途(いちず)にわずらわしくお思い申しておいでになる。院(六条院・源氏の君)は、はた目にこそ以前と変らぬお扱いでいらっしゃったものの、内心にはあの情けない一件(柏木と女三の宮)を含んでおられるご様子がはっきり感じられて、以前とはすっかりお気持も変っておしまいになった。そのような院にどうぞしてお逢いしたくないお気持から、おおかたはご決心になられたご出家であるから、今は夫婦のつながりも断たれて気がねもいらなくなったと思っていらっしゃったのに、いまだにこんなことをおっしゃられるのがつらいので、遠く離れてお暮しになれるお住いに移りたい、という気にもおなりになるけれど、さればとて一人前に、そうしたことを強(た)ってお申しあげになることもおできにはならない。〔六・中秋十五夜の遊宴、冷泉院(前・冷泉天皇)よりお使い〕 八月十五夜の夕暮に、尼宮(前朱雀天皇・女三の宮・源氏の君の正室)は御仏の前・・・・《におすわりになり、端近く、虚(うつ)けたようになってはお念仏を唱えていらっしゃる。》備考・女三の宮(朱雀天皇の皇女・源氏の君の正室)は、柏木との子を出産した後、出家を決意するが源氏の君に三条院に仏堂を作ることで源氏の君の近くに住むことになる。女三の宮(朱雀天皇の皇女・源氏の君の正室)は、御持仏(守本尊)の数々をお造りになってその開眼のご供養をされる。父朱雀院(前朱雀天皇)や今上天皇から盛大な贈物が贈られた。現代語訳の出典・「源氏物語」小学館刊・阿部秋生・東大名誉教授(1999年没)備考・出品した自筆は、大炊御門宗氏・自筆で近衛基熙の旧・所蔵になるものです。(2)・自筆の「英訳文」は次の通りです。《The Bell Cricket(鈴虫)》He seemed to have forgotten her vows and in general his behavior was not easily condoned. It was proper enough when there were others present but he managed to make it very clear to her that he knew of her misdeeds. It was chiefly because she found his attentions so distasteful that she had become a nun. She had hoped that she might now find peace ―and here he was with endless regrets. She longed to withdraw to a retreat of her very own but she was not one to say so. On the evening of the full moon not yet risen she sat near the veranda of her chapel・・・・《meditatively invoking the holy name.》英語訳文(英文)の出典:『The Tale of Genji』Edward George Seidensticker(エドワード・ジョージ・サイデンステッカー)コロンビア大学教授(2007年没)(2)・自筆の「中国語訳」は次の通りです。《鈴虫》本来,源氏在人前三公主的度不改,内心却然了那事情而深感不快,他的心情完全了。三公主希望不再与他面,因而心出家,以从此脱系,可以放心了。知他是些,使痛苦不堪。想此境,避入深山,但也不便正式提出。八月十五傍,明月未升之,中国訳文の出典:『源氏物語(Yunsh wy)』豊子愷(ほうしがい)中国最初の「源氏物語」翻訳者(文化大革命で没)「鈴虫の巻」原本の末尾(原本番号16-A)の印は、仙台藩第五代藩主・伊達吉村の正室・伊達貞子の押印中央の写真(右から2番目)の写真が「源氏物語」鈴虫の巻の末尾(原本番号16-A)の押印。左端の2つの印が仙台藩主第五代藩主・伊達吉村の正室(冬姫)。冬姫は内大臣・通誠の養女。冬姫は通称。正式な名は伊達貞子。左端の写真は「鈴虫の巻」末尾の拡大写真。左上は、「渚宮東面煙波冷」(渚宮(しょきゆう・楚王の宮殿)の東面(とうめん)に煙のように霞んで見える煙波(えんぱ)は冷ややかに)の印。左下は仙台藩の家紋印右端の写真上は仙台藩主(伊達家)正室一覧表の表紙。表紙の下は一覧の拡大写真(仙台市立博物館・刊行)(奥書は、令和2年11月29日に蔵の中の桐箱から発見されたものです。)自筆の疎明資料等は、下記の通りです。(Ⅰ)・上の写真右端は、高松宮「源氏物語」のうち「桐壺」の巻冒頭・(出典資料 別冊「太陽」「源氏物語絵巻五十四帖」(平凡社・刊)78頁。筆者は近衛関白政家公。中央の写真は、応永五年(1398)の年号。年号の左の印は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)の落款(印譜)。左の写真は、桐壺の巻の奥付。左大臣から関白に昇進した近衛基熙(もとひろ)公の花押。上下2段の花押のうち、上の印は。出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)の落款(印譜)、下の印は仙台藩医・木村寿禎の落款(印譜)「2000円札に描かれた国宝『源氏物語』鈴虫」・「額縁裏面表記ラベル」「近衛基熙の肖像」1番上の写真は、2000円札に描かれた国宝「源氏物語」鈴虫2000年に発行された二千円札の裏には、この国宝「源氏物語絵巻・鈴虫」の第一段の詞書と、第二段の絵が印刷されています。左が冷泉院(前冷泉天皇)右は源氏の君2番目の写真は、2000円札に描かれた国宝「源氏物語」鈴虫(拡大)3番目の写真は「額縁裏面」に表記されるラベル。2番目の写真は近衛基熙の肖像(陽明文庫・所蔵)4番目の写真は、第107代後陽成天皇の曾孫・近衛基熙の天皇家・近衛家略系図「源氏物語」「鈴虫の巻」絵図、茶室関係資料下記写真1段目右の写真は、国立民族学博物館所蔵「源氏物語」のうち「鈴虫の巻」(日本版)の表紙1段目の左の2枚の写真は「鈴虫の巻」原本の1(上段)、及び原本の2(下段)・国立民族学博物館所蔵上から2段目の写真は、「淡交」別冊(愛蔵版・№71 『源氏物語』特集)上から3段目左右の写真は、茶会における大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」を茶道具として用いた茶室の事例「自筆の画像断層(MRI)写真」(出品した自筆の「断層画像写真」(鈴虫の巻)MRI 38―7A自筆下二つの印は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室・方子(よりこ)と娘・幾千姫(玉映)の落款大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」近衛基熙・旧所蔵(断簡)を出品商品説明(来歴)大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」は、第107代後陽成天皇の曾孫・近衛基熙の旧所蔵である。近衛基熙は、「源氏物語」に造詣が深く、「源氏物語」の注釈書『一簣抄』(いっきしょう)を書いてある。出品した大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」は、近衛基熙が研究のために収集し、のちに近衛家から出雲松江藩主・松平治郷(不昧公)の正室・方子(よりこ)に伝わり、方子の生家である仙台藩から同藩の藩医・木村寿禎に伝来していたものである。漢詩文原本自筆上部に「渚宮東面煙波冷」(渚宮(しょきゆう・楚王の宮殿)の東面(とうめん)に煙のように霞んで見える煙波(えんぱ)は冷やかに)の漢詩の落款が押捺されている。この漢詩は「白氏文集」の漢詩に由来するものです。柏木は「渚宮(しょきゆう)」におり、「煙波(えんぱ)は冷やや」な地にいる。つまり柏木は決して良い環境にいるわけではないという源氏の君の心境をあらわしている。源氏物語「鈴虫」原本に記されております。紫式部が「鈴虫」を書くに際し、「白氏文集」の漢詩を熟読したうえで「源氏物語」の「鈴虫の巻」を書いていることがわかります。漢詩の落款の意味原本上部の漢詩の落款は、「讃」と称されるもので、古来、掛軸の書画に第三者がお褒めの言葉を書き込むもので元々は自筆でした。貴族から始まり藩主、あるいは高名な茶人や僧侶が書かれて、それが茶会の「掛軸」に装丁されて披露されておりました。 特に出雲・松江藩などの茶道の盛んな大名家の所蔵する自筆などに「讃」が付され、後に自筆に代わり、石刻による「漢詩」の篆書が「讃」として用いられました。 「茶事」は、「ヨーロッパの晩餐会(ばんさんかい)」とも言われます。晩餐会では、「ワインを楽しむために行われる」ところも似ています。とりわけ、茶室に入って行うことは、床の間の「掛け軸」(かけじく)を拝見(はいけん)することです。茶道では「掛け軸は最高のごちそう」といわれております。とりわけ、漢詩の落款は、ただ、古典の漢詩を入れればいいという単純なものではなく、たとえば、「源氏物語」の場合、原本の中に込められている紫式部が考えた知識を読み解くことにあります。「讃」の中に有名な白楽天の漢詩を単純に落款として入れたのではなく、紫式部が原本の中に白楽天の漢詩を読み込んでいることを知ったうえで漢詩を選んでおります。 落款の「讃」の元になるその原文の個所には、「渚宮東面煙波冷」(渚宮(しょきゆう・楚王の宮殿)の東面(とうめん)に煙のように霞んで見える煙波(えんぱ)は冷やかに)の漢詩文の落款が押捺されている。この意味は、柏木は決して良い環境にいるわけではないという源氏の君の心境をあらわしている。この漢詩は「白氏文集」に由来するものです。つまり、原文の内容に関する漢詩の落款を押捺しているのは、茶会における床の間の「掛け軸」(かけじく)を拝見(はいけん)の際に、茶会を主催する亭主が、客に「最高のごちそう」を振る舞うために漢詩の「白氏文集」披露したものです。茶会の際に落款に記された由来と内容を知った客が広くそのことを社会に広めたために結果的に、多くの茶会に開催される「最高のごちそう」として原文に関係する漢詩の落款を付したものです。「落款」の漢詩の由来を待合において説明する際に、長い時間を要し、茶会における貴重な時間であったと推定されております。自筆の希少価値について自筆の稀少価値は、和紙の生成技法の緻密さにあります。上の「拡大断層(MRI)写真」でわかる通り、極めて薄い和紙の上に墨の文字がくっきりと浮き上がるように「源氏物語」の文字が記されております。出品している書の「断層(MRI)写真」の原板は、レントゲン写真と同じ新聞の半分ほどの大きさのフィルムです。肉眼では見ることのできない和紙の繊維の一本一本のミクロの世界を見ることができます。日本国内では医療用以外には見ることのできない書の「断層(MRI)写真」です。古切の書は、一旦表装を剥離し分析と鑑定検査のために「断層(MRI)写真撮影」をしております。撮影後、展示のために再表装をしております。掛軸や屏風にすることが可能なように、「Removable Paste(再剥離用糊)」を使用しているため、自筆の書に影響をあたえずに、容易に「剥離」することができるような特殊な表装となっております。断層(MRI)写真従来、日本の古美術の鑑定の際の分析・解析は、エックス線写真、赤外写真、顕微鏡が中心です。一方、アメリカやイギリスでは研究が進み和紙の組成状況を精確に分析・解析をするために断層(MRI)写真が利用されており、今回の出品に際し、「断層(MRI)写真」を資料として出しました。本物を見分けるための欧米の進んだ分析・解析技術を見ることができます。寸法「源氏物語」自筆の大きさ タテ21.8センチ ヨコ12.8センチ。額縁の大きさは タテ37.0センチ ヨコ28.0センチです。額縁は新品です。「源氏物語」の自筆について1・筆跡の分析について 国内における鑑定人は、自筆の筆者を識別するために、個々の文字ごとに字画線の交叉する位置や角度や位置など、組み合わせられた字画線間に見られる関係性によって、個人癖の特徴を見出して識別する方法、また個々の文字における、画線の長辺、湾曲度、直線性や断続の状態、点画の形態などに見られる筆跡の特徴によって識別する方法、そして、書の勢い、速さ、力加減、滑らかさ、などの筆勢によって識別する方法が一般的な手法です。一方、欧米では一般的には、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析をコンピューターの数値によって解析しております。数値解析は、文字の筆順に従いX、Y座標を読み、そのX、Y座標をコンピューターへ入力後、コンピューターによって多変量解析を行うものです。解析の基準となるのが「ドーバート基準」で、アメリカでは日本国内の画像データを自動的に収集、自筆の分析に際し、数値データをコンピューターで自動的に解析し「極似」した画像データによって筆者を識別する研究が進んでおります。2・大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)の自筆の特定について自筆の筆者は、書体、書風から京都の公卿によって書かれたものであるはわかっていたが、昭和38年以来、筆者名は特定されていなかった。その後、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析と並行し、奥書の「宗」の字の下の文字が判読できずにいた。それが、技術の進歩により「宗」の下の文字が「氏」と判読された結果、南北朝時代から室町時代前期の公卿であった「大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)」であることが判明した。「源氏物語」には、応永五年(1398)~応永十三年(1406)までの複数の年号の記載があることから、大炊御門宗氏が23歳から31歳までの間に書かれたものと推定されている。宗氏は、正二位・内大臣まで昇進したのち、応永28年(1421)47歳で没している。3・自筆「源氏物語」の旧・所蔵者の特定の経緯について近衛基熙の旧・所蔵の特定は、「花押」の写真照合技術によるものです。アメリカのコンピューターを用い、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析を、花押の照合に応用し、指紋の照合方法と同じ手法により99.9パーセントの確率で特定に至ったものです。4・近衛基熙(このえもとひろ)について近衛基熙は、慶安元年(1648年)3月6日、近衛尚嗣(関白・左大臣)の長男として誕生。母は後水尾天皇皇女女二宮。実母は近衛家女房(瑤林院)。幼名は多治丸。父、尚嗣が早世し、尚嗣と正室女二宮の間には男子がなかったため、後水尾上皇の命により、近衛家の外にあった基熙が迎えられて上皇の保護下で育てられた。承応3年(1654年)12月に元服して正五位下に叙せられ、左近衛権少将となる。以後、摂関家の当主として累進し、翌年明暦元年(1655年)従三位に上り公卿に列せられる。明暦2年(1656年)に権中納言、万治元年(1658年)に権大納言となり、寛文4年(1664年)11月23日には後水尾上皇の皇女常子内親王を正室に賜った。寛文5年(1665年)6月、18歳で内大臣に任じられ、寛文11年(1671年)には右大臣、さらに延宝5年(1677年)に左大臣へ進み、長い時を経て元禄3年(1690年)1月に関白に昇進した。近衛基熙は、寛文5年(1665年)から晩年まで『基熈公記』で知られる日記を書いているHP近衛基熙・旧所蔵「源氏物語」自筆を出品いたしました。出品以外の所蔵品を紹介した出品者のホームページ「源氏物語の世界」をご覧ください。ツイッター「源氏物語の世界」も合わせてご覧ください。

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